
言志四録の中にこのような章句があります。
多少の人事は皆是れ学なり。(たしょうのじんじはみなこれがくなり)
人謂う、「近来多事にして学を廃す」と。何ぞ其の言の繆れるや。(ひという、「きんらいたじにしてがくをはいす」と。なんぞそのげんあやまれるや。)
訳:人が行う仕事は活学とよばれる学問である。ある人が言う、「最近は忙しくなって学問をやめた」と。この人は日々の仕事が学問と知らないのだろう。
学問と聞くと本を読む、というイメージがあるかもしれないが、本を読むことだけが学問ではありません。 一斎先生が言う学問とは、日々の生活の中にある。それはどのようなことにも意識をすることだと。意識して動き、意識して話を聞き、意識して見る、そういった中に気づきがあり、学びがある。 これを陽明学では「事上磨錬」(じじょうまれん)という。
事情とは日常や日々の業務などのこと。 磨錬はその都度磨き上げること。意識して常に自分を高めようと考えれば日常においても、仕事においても、出来事すべてから學びとることができる。 一斎先生は言志緑の第32条でも同じようなこと言っています。
「緊しく此の志を立てて以て之を求めば、薪を搬び水を運ぶと雖も、亦是れ学の在る所なり。」(きびしくこのこころざしたててもってこれをもとめれば、たきぎをはこびみずをはこぶといえども、またこれがくのあるところなり)
訳:志を本気で立てれば、木を運んだり、水を運んだりする仕事でも、ここに学問があるという。 日常にどれだけ意識をしていますか?ただ歩く、ただ電車に乗る、ただ車を運転する、ではなく、どのような場面にも意識があれば 学ぶ学問がある!!こんなことを思って生活していれば人間力を常に高めることができます。
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